仁義なき戦い

"狙われる者より、狙う者のほうが強いんじゃ。"

何度もみた。
会社の人でヤクザ映画が好きな人がいてその影響で。

全5作あるのだが、2度ほど通して見てもなぜ「仁義なき戦い」というタイトルなのかがわからなかった。
ただただ主役級の男たち一人一人の個性が際立ち、魅了されるばかりだった。

飯干晃一著の仁義なき戦いの映画化である。
監督:深作欣二/脚本:笠原和夫
菅原文太演ずる"広能昌三"(ヒロノ ショウゾウ)を中心に描くヤクザ世界の青春群像劇。
この"広能昌三"というのは実在の人物"美能幸三"(ミノウ コウゾウ)である。
映画シリーズを通して観れば理解できるが、つくづくヤクザ世界に疲れてしまった美能氏が刑務所でありのままのヤクザを書いた手記が元となっている。

詳しいあらすじはかかない。
第1作目では、戦後立ち上がった山守組の呉制覇、組内での権力争いを描く。
組長・山守(金子信雄)が老獪で、あっちにこっちにとフニャフニャしてつかみ所がない。
しかし商才、というか渡り歩くバランスは非常によく、実業界にも名を出せば通る男。
うだつは上がらないが金魚のフンのようについて回る槙原(田中邦衛)を手足として、若頭・坂井(松方弘樹)や神原(川地民夫)を陥れ、さらには広能と兄弟盃の関係にある土居組(呉)の若頭・若杉(梅宮辰夫)をも巻き込み、前述の土居組を倒して一大勢力を築く。

終盤で広能は山守との親子盃を水に返し、シリーズの軸はこの二人の対立となっていく。
広能は仁義を重んじる極道。しかしながら、山守は仁義を欠く老獪な男。(だが、体裁を重んじ、裏工作で身内をも陥れていくのだが。)

古きよき広島弁を皆さんも堪能されてはどうか。



この「仁義なき戦い」がなぜに仁義のない戦いなのかを理解する上で、「知らなくても生活に困らない知恵」を書き留めておこうと思います。

ヤクザ界で絶対的な論理というか、通さなければならないスジというのが「仁義」です。
兄弟盃や親子盃という「契りを交わす」儀式など、古風なシキタリが多く、それらを重んじる事でスジを通す、仁義をわきまえる訳です。

親子盃=直盃(ジキサカズキ・ジカサカズキ)とかいう言い方もありますか。まぁ場合分けあっての使い分けですが。
完全なる「上下」を決定付ける盃。いわゆる「親がクロ言うたら白いもんも黒いんじゃ」という位、絶対的な関係を築くための契りです。
産みの親を捨てる事になり、今後は親分のために命をも差し出さなければならない。命令事項は絶対として従わないといけない。
親分/子分の関係になります。
極道の世界では親は一人しか持てない。故に心底惚れ込める、命を賭けて着いていける人と交わすべきもの。
ある意味、普通の親子よりも深いですよね。
極道の世界へ足を踏み入れる人も少なくなり、高齢化しているというような報道情報も耳にしたことがありますが…最近の若い人たちを見ればなんとなく理解できるような気がしてしまいますね。

兄弟盃=これはいくつ交わす事も許される。この盃にはランク付けと言えるものがあり、五分とか四分六とか様々。相手の所属する組織などでの格によったり、年齢差の考慮であったり色々。
ただ、反目する組織であっても兄弟盃を交わしているからといって特別というのはない。
ハジいて来いと親に言われれば行かなければならない訳で。(盃の格が違うから当然か。)

仲裁・媒酌=喧嘩や抗争が起きた場合、どこかで決着をつけなれればならない。その時にも儀式を執り行うが、その時に間に入る者を指す。
盃を交わす場合は媒酌人という。
どちらにおいても共通するのは必ず両者に縁があり、かつ、目上である。
激化する抗争の仲裁となると、その本人も命の覚悟が必要となる場合が多い。
(よく映画などの題材にされたり、抗争を描く上でのプロセスとして挙がるが、喧嘩・抗争をやめたくない者が仲裁者の命を奪る場合がある。)

ヤクザ界では組織間の同盟などにはこれら盃が使用されたりします。
大組織の傘下となる場合に、大組織の構成員と盃を交わしたりする。この場合は傍系になる。
大組織の親分と親子の盃を交わす場合は直系。


この辺の話に詳しくなれる漫画が「代紋 Take2」かな。
あれを読んでこの映画を観て「仁義のない戦いとはこういう事か」と思ったから。
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by shivaryu | 2006-04-19 00:00 | 映画